津波の恐ろしさを今に伝える石碑「地震両川口津浪記」!をワンダーランド久保田が見て来ました。
「地震両川口津浪記」の大阪市浪速区幸町の石碑の紹介です。
東京大学地震研究所 都 司 嘉 宣先生による「地震両川口津浪記」解説
大阪市大正区のJR大正駅近く、安治川と木津川の合流点付近に大正橋がかかっている。その橋のたもとに、「大地震両川口津浪記」と題する石碑が建っている。安政南海地震(1854)の翌年、安政二年(1855)七月に大坂・幸町五丁目の船場によって建てられたものである。
その文には安政元年(1854)六月十四日の伊賀上野地震による大阪の様子、十一月四日の安政東海地震の大阪での震度四程度のかなり大きな揺れを感じて、多くの人が小舟に避難したことが書かれている。石碑には、続いて翌五日の南海地震の記事が現れる。すなわち、申刻(16時)の本震の揺れによって、大阪では家の崩れ、出火も生じた。本震から2時間ほど経過した日暮れごろ、大津波が押し寄せ、安治川、木津川に山のような大波が入ってきた。地震の避難で大勢の人が乗りこんだ多数の船が川の上流に押し流され、橋にうち当たって転覆し、橋は落ち、さらに後から流されてきた船が折り重なった。この津波のために大阪全体で死者341人と伝えられる。石碑の文はさらに続く。
「今より百四十八ケ年前、宝永四丁亥年(1707)十月四日の大地震の節も、小船に乗り津浪にて溺死人多しとかや。年月へだては伝へ聞く人稀なる故、今亦所かはらず夥しき人損し、いたましきこと限なし」。
すなわち、148年前の宝永4年(1707)の南海地震でも、地震からの避難のために船に乗った人がおおぜいいて津波で溺れ死んだ。長い年月がたったので、この言い伝えを知る人が少なくなり、今またむざむざと同じように船に乗って同じ原因で死者を多く出すことになってしまった、というのである。先人の残した教訓を生かすことができなかった悔しさが文面ににじみ出ている。このあと石碑には後世の人へ教訓を残す文章が続く。
「後年又はかりがたし。すべて大地震の節は津浪起こらんことを兼ねて心得、必ず船に乗るべからず」。すなわち、将来又同じように地震が起きるかも知れない。大地震の時はいつでも津波が起きることをあらかじめ知っておいて、決して船に乗ってはいけない、というのである。さらに碑文には、「火の用心肝要なり」、「川内滞船は水勢おだやかなる所をえらび繋ぎ換え、囲い船は素早く高いところへ移せ」と現代にも通用する地震津波の緊急対策が書かれている。そうして、碑文の末尾はこう締めくくられている。「願わくば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」、すなわち、この石碑の意義を理解してくれる人がいましたら、この石碑の文字がいつまでも人々が読みやすいように、どうぞ毎年墨を入れてほしい、というのである。そうして、この石碑には今も黒々と墨が入れてある。この石碑を建立した家の子孫の人が毎年墨を入れ続けているのであるという。われわれはこの石碑の建立者の子孫にたいする深い配慮と、周到な用意に深く敬意を表するべきであろう。いま、大阪に住む人は、この石碑の建立者の教訓と重い意志に答えることができるであろうか?
とまだまだ続くのですが、これを読んでいると150年周期で大阪にも地震による津波が起こってるとあります。
阪神大震災・東日本大震災・この前の熊本地震、何か人ごとのように思われていますがこの石碑には「年々読みやすいように墨を入れて、未来への教訓としていけとあります。人間が死なないと思って生きているように我々も地震なんかこない、津波なんかこないと勝手に良いように解釈をしているのかもしれません。「備えあれば憂い無し」とまではいかなくても地震が起こったら、まずは地下から出て、高いところに逃げ、命だけは守るようにしたいものです。
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